ハンカチの使いどころはどこ?
ネタに困ったときの「はてブ」頼み(笑)
■ 『鏡の法則 (ハンカチを用意して読め!)』( 「郷一郎がゆく」さんより)
人生の大切な考え方が実話に基づいて物語で書かれているのですが、読んだ人の90%が涙するそうです。(誰が計ったんだろう? でもぼくも涙が噴き出しました)
はてブですごい勢いでブックマークされていたので読んでみた。
結果、「多分そうだろうなあ」と思っていたけど案の定、私にはハンカチは必要なかった(笑)
何がダメかというと、まずタイトル。
私は基本的に涙もろい人間なので、例えばドラマの最後10分を見ただけで泣けちゃうときもあるし、
いい本だったら通勤電車の中でも泣いてしまう。
映画とかお芝居だったら息するのも大変なくらい号泣しちゃうこともあるくらい。
でも、その分非常に警戒心も強い。
こんなふうにいきなりタイトルに「ハンカチを用意して~」なんて書いてある文章を見ると頭の中で無意識に「感動する」「泣く」
という感情にブレーキがかかってしまうのだ。
多分、多くの人がそういう部分持ってるんじゃないかな。
「笑えます!」あるいは「泣けます!」っていわれると、「(自分は)そうなるもんか!」って思ってしまう気持ち。
それがまず素直な、無防備な心を邪魔するわけだ。
感動させたいなら「静かに」「さりげなく」紹介すべし。
と言っても、いくらブレーキをかけたって泣いてしまうことも多々ある。
それはその作品自体がとてもよく出来ていて、作品に入り込んで感情移入してしまう場合。
ところがこれは、全くそんなことはなかった。
理由は簡単。文章がヘタ過ぎる。
確かに「いい話」ではなるかもしれないけど、少なくとも「人を感動させるために」書いた文章ではないと思う。
特に一番感動する場面であろう娘と父親の和解のシーンで
うっ、うっ、うっ(ふたたび嗚咽)
とか書かれたら、いくらそこまでに感動していたとしても一気に醒めるってば^^;
「実話」らしいので(これもちょっと眉唾に思えてしまうが)書いた人は「現実の話なんだから、そのまま書けば感動する」
とでも思ったのかもしれないけど、物語っていうのはそんなに簡単じゃないでしょう。
現実の話をそのまま書いて感動出来るのはそこに直接関係がある人か、その話の中に自己を投影出来る人だけで、
それ以外の人に対しては殆ど効力を持っていないと思う。
それ以外の人も取り込んで感情を共有させるためには物語の中に演出とか構成とかレトリックとかいった「技術」が必要なのだと思う。
そうかと思うと変に演出過剰な部分もあったり。
例えば最後の親子丼のところ。
普通(実話)だったら絶対!(笑)レンジで温めてから食べると思う!
この辺りのわざとらしい展開が、胡散臭さを誘うのよねえ…。
先日読んだ「asahi.com」 の書評(「ネット純愛、 ウソかマコトか 『電車男、重松清と語る』」/評者:落合早苗氏)のなかに
ストーリーがストーリーとして成立するのに必要なのは、リアルではなく、リアリティであろう。
という文章があって「おお、なるほど」と思ったんだけど、そのだんでいけばこの「鏡の法則」には「リアルはある(かもしれない)けど、 リアリティはない」ってことだろうと思う。
ただ、単純に内容自体に関していえば「そんなこともあるかもね~」とは思う。
何か困ったことが起きたとき、目の前に見えている現象だけじゃなくてもっと広い意味で原因を探ることは確かに有効かも。
だからA子と父親の関係の修復が、彼女と息子、及び夫との関係にいい影響を与える場合もある、ということはまあ納得できる。
でもだからといって、あの場面でC君が急に優しくなったのはちょっと飛躍しすぎでは。
もしかしてB氏とC君には何か関係が?(笑)
例えば、「日頃、妻が自分を軽視する言動を繰り返すことに嫌気がさした夫が、B氏に協力して貰って仕組んだ話(息子も協力)」
ってストーリーはどうかな?
そのほうが「リアリティ」がありそうな気がするんだけど(笑)
…こういう話をこんなふうにしか読めない私に問題アリアリかしら?^^;
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