弥勒の月
あさの あつこ
内容(「BOOK」データベースより)
小間物問屋「遠野屋」の若おかみ・おりんの溺死体が見つかった。安寧の世に満たされず、心に虚空を抱える若き同心・信次郎は、妻の亡骸を前にした遠野屋主人・清之介の立ち振る舞いに違和感を覚える。―この男はただの商人ではない。闇の道を惑いながら歩く男たちの葛藤が炙り出す真実とは。
『バッテリー』シリーズの著者 あさのあつこ氏による時代小説。
強いキャラクターの登場人物、テンポのいい会話を主体にした文章、きめ細やかな心理描写、積み上げられていく丁寧なエピソード…。
そうしたすべてが面白くて全体の3分の2くらいまではページを繰るのももどかしいくらい一気に読んだ。
で、謎解きではどんな展開が待っているのかと楽しみにしていたのに…このあと一気に失速。
「あれれ?」と思っているうちに終わってしまった。
つくづく「どこにどんな形で、どう着地させるか」というのは難しいものなんだなあ、と思う。
謎解きまでの一番の魅力は、エピソードを積み上げても積み上げてもその謎の「本当の姿形」「意図」「犯人像」が見えなかったところ。
確実にすべての中心にいるはずの「遠野屋の過去」をぼかすことで、すべてが曖昧なままただひたすら闇の中を「気配」や「予感」だけを頼りに進んでいるような、そうした底の判らない深み、というものがあった。
そして、その闇が深い分「そこには一体何があるのだろう」という期待が大きくなってくるというもの。
でも、その謎もいつかは明らかにされるときが来る。
その明かされた謎が期待に添う、またはそれ以上なら最後まで「面白かった!」と読めたんだろうけど、残念ながらこの物語の場合、出てきた真実にはそこまでの力はなかった、ということ。
ひどく贅沢だし、我が儘な話だけど、読者というものはそういうモノだよね。
もちろん、その「期待したほどでもなかった」遠野屋の過去にしても、設定としてはきちんとしていたと思う。
でも、何も知らされていない読者の前に「実はこうでした」と投げ出したときに、今までの期待に叶うかと言われたらやはり「今ひとつ」なんだよね。
例えば、そこに辿り着くまでにその過去についての断片を少しずつ散りばめてあったりしたほうが、読んでいるほうはそこに肉付けした範囲内で想像するから真実が明かされたとき、それを受け入れやすくなるんじゃないかな。
多分読者というのは「驚かされたい」という気持ちと同時に「自分も推理したい」という欲求もあるのだと思う。
で、最後の謎解きで「自分の推理が当たっていた」プラス「それ以上の展開でビックリ」の二重の楽しさを求めているような気がする。
だから、この作品のようにひたすら過去を隠して読者の「推理する楽しみ」を奪うのであれば、残された「意外な結末」は「推理する楽しみ」も含めて満足させてくれる内容でなくてはならないってこと。
恐ろしく高いハードルだ…^^;
で、この作品については残念ながらその自ら高くしたハードルを越えることは出来なかったと私は思う。
それに加えて真犯人が判ってからの展開もかなり強引だったし、何より最後に登場人物がみんなバラバラになってしまったことが残念。
それまでのやり取りの中でお互いがお互いを納得は出来ないながらも理解しようとし始めていた部分が見えていたのに、それをすべて投げ出してあんなラストになっているなんて…。
こと、これが時代小説だからこそ、ラストは希望が持てるものであって欲しかった。
「いろいろ辛いこともあるけど、人間死んだらお終い。生きてるからこそいいことがあるんだよ」といった少々安直なメッセージを最後に受け取れることこそが時代小説を読む醍醐味みたいなことろあると思うんだけど。
やっぱり最後は「ホロッ」とさせてくれなくちゃだよね(笑)
主要な登場人物はみんな魅力的なだけに本当に残念。
遠野屋は無理かもしれないけど、信次郎と伊佐治の話はこれからも書いて欲しいなあ。
それにしても、この物語を敢えて時代小説でやる意味が判らない。
まんま、現代小説でもいけると思う。
まあ、だからこそ「時代小説」を選んだのかもしれないけど。
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